ひひひなひび

健康に、ごきげんに。

朝何時に起きるか?問題

とある日のこと。

ママ友らと雑談していて、朝は何時に起きるのか?夜は何時に寝るのか?という話になる。

 

私はその場は聴く側だったのだが、とある方の、

仕事の時は5時起きかな、仕事ない時は5時30分とか?という発言にビクッとした。

 

あれ、私とおんなじじゃん…!と。

 

私は朝型人間である。

昔は夜型というか、遅くまで仕事をするタイプの人間だっだが、今は子育て中のため、自分の意図ではないが、強制的に朝型へと移行。

 

思考までもが、変わったと思う。

夜にいろいろ考えるとだいたいネガティブな風にしかならない。

同じことを朝考えると、冷静になれたり。

 

そんな訳で勝手に朝型と自負しておったが、なんてことはない、子育て中の方はみんな5時半くらいには当然起きてますよね…

 

ホレ、朝型とと自負するほどでもないじゃん!と自分にツッコミを入れるのである。

 

んじゃやっぱり朝4時くらいには起きないとなぁと思ったりもするのだが、当たり前だけど身体を無理させてまでやるもんではない。

 

そう、なんでも早けりゃいいもんでもないし、睡眠は超大事。

時間ってやはり質の問題になるのよね。増やせないから。

 

そんな訳で昔読んだ、この本を再読。これは実行してこそ、の本ですな。

 

さっそく行動に落とし込むべし。

明日は何時に起きれるかな〜

 

はるさん、大好き!

冷静で鋭い指摘にいい意味でやられます。

時間術はいろいろ読んだけど、まさにサブタイトルの通り、子育て、介護など自分でコントロールできない時間がある方向け、の決定版!

 

 

 

 

歴史、勉強したくなってきた

とある日のこと。

ふと、歴史を勉強しようかなぁという気になってきた。

 

それはきっと今私が考えていることも、歴史上の誰かしらは同じように悩んでいた、考えていたのでは…と身をもって痛感したから。

 

きっかけは山口周さんの本。

 

 

山口周さん、考え方が好き。

無理矢理ではなく、山口さんの切り口で人生をポジティブに捉えられるようになるところが好き。

ほとんどの著作を読むくらいの勢い。

 

さて、この哲学というもの。

私の人生には馴染みのあるもの。

 

厭世的であった高校、大学時代。

ホントに笑えるくらい、当時は捻くれてましたが、その背景にあったモノのひとつが哲学であった。

 

なぜ生きるのか、なぜ私はこうなのか?これからどうしたいのか?

そんな疑問や苛立ち(まぁいわゆる中2病?)の傍らにいつも横たわっていた、哲学。

 

でも、私はそこまで頭が働かないのか?やはり学問としての哲学の道には進む勇気がなかった。(ある意味ただの言い訳です)

 

ただ、普段生きる中では、すぐそばに哲学がいてくれる気はしていた。どこかで心の拠り所になるのでは、と期待していたのだと思う。

 

で、山口周さんの本を読み漁っていたら、この本と出くわしたわけです。

 

すると、あらまビックリ!とカジュアルに書けるほどスルスルと身体に染み渡る。

正直な感想として、私が哲学に惹かれる理由がこの本に書いてある!という感じです(何様?)

 

基本、登場人物のみなさま、もうこの世にはおりません。

が、直接的でなくても、あなたもしかして、同じこと考えていたんですかね…としみじみ思う節が多々あった。

 

今、この瞬間に自分が悩んでいること、自分がここにいることにとてつもなく孤独を感じることがあるけれど、なんてことはない、きっと過去の誰かも同じように考えていたのかも?と考えるだけで世界は広がる。

 

あ、歴史って大事なのだなぁと素直に思った。

勉強したくなってきたなぁ。

 

卵焼きがあれば、最高

とある日のこと。

 

弁当作り…

はっきり言って得意でもなく、好きでもない。

 

なんとも微妙なこの弁当問題。

何度か挑戦し、止めたこともあった。

しかしながら、自作の弁当を食べることは好きなのは事実なのである。

自己肯定感が上がるのである。

 

なぜか?

そう、食べることは生きることである。

それを誰か外部にアウトソーシングするのは、たまならいいが、やはり味も飽きるし、私の場合はなんとなく自分の人生の決定権を譲り渡しているような気もしていた。

 

え、大袈裟じゃない?と思うかもだけど、過去コンビニ弁当で散々お世話になってきたので、もういい加減、そこは自立といいますか、いい加減卒業かな、と思ったわけで。

 

とはいえ、弁当は冷凍食品には頼っておる。はい、完全手作りとは行きません…

 

が、自分で考えチョイスする、というだけでもそこに意味はあると思うのだ。

 

そして、その中でも自己肯定感バク上がり?アイテムが卵焼き!

 

これは冷凍食品には敵わない、類似品のあるようで無い、ある意味での手作りです感!満載なキラーアイテム?である。市販の冷凍食品には色も味わいもなかなか真似できない!

 

だからとりあえず卵焼きが焼けてそれを入れていれば私は100点としているのだ。藤井弁当の中でも書かれていましたが、とにかく弁当は続けることが大事、だと。その続ける、という目的の意味では、とにかく自前で冷凍食品を詰め、卵焼きを入れる!で最高なのである。

 

つまるところ、食生活において主体性が自分にあればよいのである。

はい、そうやって毎日自分をおだてています。

 

 

 

いつからか、見守る側

とある日のこと。

 

ふと思うのである。

私はいつから見守る側になったのだろうと。

 

まぁ強いて具体的に言うならば親になった時から、みたいになるのかもしれないが、正直なところ、イヤ聞いてないよ、と言いたいところがある。

 

親になる覚悟が足りなかったと言えばそれまでの話だか、いつのまにか、子を育てるという責任を背負わされ、しっかりしないといけないというプレッシャーに潰されそうになり。

 

親は完璧な人間ではない。のに、どうしてこうも何か重くのしかかるもモノがあるのか?

私だってある意味、子どもだーーー!と時々叫びたくなるのは私だけか?

 

でもそのなんか背負わされてる感は、私が勝手に背負ってるだけかも、と思うときもある。そう、思い込み。

ならば、さっさと降ろせばよい。

 

そして見守る子に対しても。

あっと言う間にその時間も過ぎ去るのだ、とその時は。

正直、常に思いだす。とある方がおっしゃっていたこと。育児とはサヨナラの連続、だと。

 

ホントにそう。

ずっとハイハイしている子は基本いない。

夜泣きはいつか終わる。

子どもの成長は嬉しいけど、いつもそれは過去との決別というと大袈裟だけど、ひとつの期間の終わりを意味している。

 

だから、クサイと思われるかも、だけど今を抱きしめて、と自身に思う。

 

そして、子に対しても粘り強く、見守りたい。

粘り強く見てくれるのは、多分親しかいない。

 

つい何事も早く習得出来る方がいい、物分かりが良い方がいい、効率がいい方がいい…と親として、私は焦る傾向がある。

 

でも多分、自分も遅咲き?とでもいうのか、まぁフラフラしつつも、大人になってぼちぼちと自分らしく生き始めたタイプである。

 

だからいつまでも、あなたの味方だよーと気長に見守れる親でありたい(あくまで理想)。

 

中途半端病と生きる

とある日のこと。

 

あぁなんだか嫌だなぁという気配がする。ズーンと気持ちが沈むのである。

こ、これは…

あ、来ましたね?中途半端病さん。

 

と私は勝手に心の中で呼ぶのである。

その方はいつもではないが、たまにふらっとやって来るのである。

 

私が勝手に中途半端病と呼ぶのは、なんてことはない、ただの自分の精神状態のこと。

あえて、おもしろおかしく表現しただけのこと、である。

 

時折、やってくるのである、その感情が。

なんて自分は中途半端なのだーーー!!と叫び、頭を抱えたくなるような。

落ち込み、悲しみ、虚しさ…様々な感情が自分を揺さぶって来るのである。

 

結婚し、妻となり、親となり。

私は出産を機に仕事を辞め、家庭に入るが、いろいろ思うことあり、で、また仕事もするように。

 

が、どうしたことか?

どこにも進んでいないような焦燥感に襲われたのである。

妻としてもよくも無いけど悪くも無い、親としてもよくも無いけど悪くも無い、仕事も頑張っているような、いや頑張っていないような…自分自身としても趣味とか何かしているわけでもない…

 

これ、全部が中途半端じゃん…と。

 

これは数年前からであった。初期の頃は何人かの親しい人にも気持ちを正直にぶつけてみたこともあった。

 

ただまわりに言われたのは、まぁみんなそんなもんだと思うよ、ということ。

そしてネットでそれを検索してみると、やはり同じような悩みを持つ方が、私以外にもいる!

が、やはりまぁそんなものですよ、という意見もかなりあるのであった。

 

いやいや、なんかわかるようでわからないんだけど、なんか納得できない!と私は怒りながら思った。

 

が、とある人が、そうやっていろいろ中途半端かもしれないけど、後で点と点が繋がればいいんだよ、という。今は種まきとも言えるんだよ、と。

 

当時の私は、は?え?!くらいの全く腑に落ちない状態だった。

 

しかし時は流れ、私もいろいろな本を読み、様々な人と出会い…

点と点の話は、その方のオリジナルな訳ではなく、Appleスティーブ・ジョブズの言っていたことと重なることを知る。

 

そして、ただ毎日を淡々と粛々と生きる、それだけで十分素晴らしいことだということも徐々に理解し始めるようになる。アドラー心理学の「普通であることの勇気」という言葉を知ったのもこの頃だ。

 

だからきっと私は何かを掴みかけているのだとは思う。けれど、やっぱり自分を中途半端だなぁと思う気持ちが時折胸の中からひょっこり現れる。

 

だからせめて、それを笑いを添えて、温かく迎えてあげようかと思うのである。いつかこんなことも忘れる日が来ることを祈りつつ。

 

暖冬から考える

とある日のこと。

 

暖冬?と聞いた気がしたが...今日は寒いじゃないか!!

といかにも雪でも降りそうな、薄暗い天気のある日。

勝手に理不尽な思いをさせられたかのように自分は思っていた。

 

なんか確かにこの冬は暖冬だとか聞きました。

とあるファッション系の記事では、”暖冬におすすめのコート特集”という、一見矛盾している?よーな記事さえもあり。

え?だって薄手のアウターあればいいんじゃないの?と。

 

勝手に脳内は暖冬というキーワードが根付いていた。

 

しかしながら、ふと我に帰る。

誰も真冬日がない、寒い日はありません、だとか、雪が降らない、とかは言っているわけではないんじゃ?!と...

 

そう、冷静に考えればそれって当たり前のこと。

当然、雪が降ることもあるでしょうし、気温が下がることもあるでしょう。

特に天気は予想は難しいであろう分野である。

 

そう「平均気温」の話なのです。

平均、とは、平らにならしてみれば...という話。

だから、その実体が存在するか、といえばまた別の話なのよね。

(テストの平均点を考えれば、その平均点付近の子が多いというわけでもなかったりするわけで)

 

にも関わらず、あっさりと暖冬というキーワードに踊らされてる自分。

あはは、な話である。

暖冬に「平均」を思い出させてもらった。良い学びとなった。

 

 

 

 

毎日同じ服でもなんとかなる

とある日のこと。

 

冬というのは、着る服に悩む。というのは、着られる服が限られるからである。

 

で、いっそのこと、もう毎日同じでもなんとかなるのでは?と一週間くらい、いや正確には平日5日くらい試してみたら、なんてことなかった。

 

ある意味、当たり前ではあるが、これはいける。

この冬はもうこれでいいかな、という気がしてきた。

 

問題は素材の特性、そして私の見た目ということになる。

 

まず、当たり前だけど寒いので、防寒と言う機能があるのが大前提なのだけど、定番と言える、かのニットやセーターなるものが最近はあまり好きでない。

ガラガラと洗濯機で洗えるものはいいのだが、あのニットとかはウール系だとそういうわけにはいかないし、かといって頻繁にクリーニングに出すのも、いかがなものかと...

 

なのでニットというものを着ない、という選択もありかな、と思ったのだけど、やはり一度着てしまうと暖かいので、やはり必要かな、という気もして、結局まだ手放せないでいる...

 

言い訳するならば、代わりの候補となるパーカー・スウェットや綿ニットも検討したが結局こういうものは、厚くなりやすく、すると重い。重い服は肩が凝るので大嫌いだし、結局これはこれで乾きにくいという問題もある。

 

で、ウールに戻ったのだけど、毎日洗うわけにはいかない分、ということは次の日も着れるのである!!(洗濯しないからもう乾いているわけ)

※もし、臭いと思う人がいたらとドキドキはするが、一応、日中家にいるときは外へ泳ぐように干したりしている。

 

次は見た目の問題。

 

見た目はまぁ非常に哲学的な意味を含んでいるから(あくまで個人の感想です)、私個人としても軽視はできない部分である。

 

だが、まぁ冬だと結局外側が主に見られる部分になり、それってアウターに尽きる。が、アウターと何種類も所有するというのは、私個人の価値観に合わない(だって断捨離中だもの)。

 

そんな時、大好きなファッションエディター昼田祥子さんがこんな記事を!

「オフシーズン」思考!!これで解決ですね(笑)

1年間おしゃれに疾走しなくていい。服に気を取られない「オフシーズン」を作ったらラクになった【エディター昼田祥子さん】 | ファッションエディター昼田祥子 断捨離で見えた私と服の新しい関係 | mi-mollet(ミモレ) | 明日の私へ、小さな一歩!

 

ということで、この冬、私は基本ワンパターンで過ごすことに。

(たまに人と会うことが前提の時は違うものを着たりします)

 

私の服にまつわるあれこれの理想は、上の昼田さんの考え方。

年間を通して、数パターンに絞れればいいなぁ。